★精霊船の由来


寛政時代の記録には「昔は精霊を流すに船をつくるということもなく」とある。精霊は聖霊とも書いていた。読み方もしょうろうではなく、昔風にはしょうりょうである。


享保(1716〜1725)のころ、中島聖堂の学頭をしていて、のち幕府の天文方をした廬草拙(ろそうせつ)という儒者が市民が精霊物を菰包みで流しているのを、これはあまりにも霊に対し失礼だというので藁で小船を作ってこれに乗せて流した、という記録がある。

ろそうせつ(1671〜1729)が亨保のころ始めたとすれば、正徳(1711〜1715)以前には精霊船は無かったことになる。
長崎名勝図絵という本には、享保のころ、物好きな男が小船を作って供え物を積んで流した、とある。この場合は一市民が始めたというおもむきで書いてある。また古書には、唐人の彩舟流し(さいしゅうながし)という説もある。今日まだ定説はない。

◇長崎辞典・風俗文化編・長崎文献社より